オーディオ趣味のスタンス
2002年11月当時、旧ホームページで書いていたことを原文のまま転載します。
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ホームページ閉鎖まで残すところ数日になりました。最後だからと言うわけではありませんが、私の本音に近いところを書いてみたいと思います。
最近、自分自身にとってのオーディオ趣味はどの様な意味があるのか?考えることがあります。
既に書いたことですが、私にとってのオーディオ趣味は私が音楽を楽しむためのものです。現状には満足していますが、私の理想を満足しているとは全く思っていません。欲を言えば際限がありませんので、現状に満足できていることを喜びとすべきではないかと思っています。
私が求めている音楽表現力を更に追求しようとすれば、現状のシステムの限界を否応なく認識させられることでしょう。今後の趣味の展開によっては、その様な限界を超える装置との出会いもあることでしょう。しかし、その様な装置を自分のシステムに組み入れることを思うと、気が遠くなってしまいます。導入に当たっての資金面も問題ですが、その様な装置を扱う環境が大きな問題になることでしょう。つまり、自分自身の能力(財力、技術力他)の限界が問題になるのだと思っています。既に越えている様な気はしますが、「分相応」を自覚し始めています。
また、現代的なスタイルに「宗旨替え」した方がもっと一般のオーディオ趣味的な「良い音」になる可能性があることを、私は否定するつもりはありません。現代的な装置でなければ出せない「良い音」は、私も認識しています。メッセージボードでも書いたように、現代的な装置でしか得られない「良い音」は魅力的なものだと思います。しかしながら、私にとってその様な「良い音」の優先順位は、私が求めている表現力と比べて高くありません。将来は、私の好みの問題など意味を持たなくなるほどにオーディオは進化するのかも知れませんが、私がどうしても欲しいと思えるような表現力を持つ現代的な装置に出会った記憶は、残念ながら現在までのところ全くありません。
オーディオ装置によって再生される音響空間は、私には「虚構の世界」にしか思えません。「虚構」の部分だけを捉えたら、オーディオ趣味に入れ込む意義など私には全く感じられません。ところが、「音楽」というもの、音楽で表現しようとした「世界」を意識した瞬間、私のオーディオに対する価値観が一変してしまうようです。音楽で表現しようとした「世界」は、音楽家(作曲家、演奏家)の精神世界の中の創造物であって、「音」という物理現象を借りたに過ぎないと私は考えています。音楽を楽しむには「音」を抜きには語れませんが、精神世界の創造物を楽しんでいるのだと思えば、私が求めているオーディオにおける「表現力」がぼんやりと見えてくるような気になります。もちろん、その様なものに実体など無いでしょうから、好みの問題として片づけても構わないでしょう。
しかし、本音を言えば、私にとって音楽を真剣に楽しむに値する既製品のオーディオ装置が絶望的に少ない事を思えば、「好みの問題」も深刻になります。今のところ、スピーカーやレコードプレーヤー等は、私との妥協点を見いだせる既製品(過去の物でも)使っていますが、既製品のプリアンプやパワーアンプに妥協点を見出す可能性を夢見ることさえもできないでいます。もし、スピーカーやレコードプレーヤーに対する要求が今以上に高くなったとしたら、その時は更なるオーディオ地獄に堕ちてしまうことでしょう。いや、既に堕ちつつあると言った方が正確かも知れません。



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